第一話 Broken future
「昔々、あるところに暴れん坊の神様、ストライフがいました」
母親が絵本を読み始めると、その兄弟はきらりと目を輝かせた。
「彼は色んな場所で暴れ回って物を壊し、人々にとても嫌われていました。しかし、ある日のこと。世界を飲み込んでしまおうとする悪い神様、ケイオスが現れ、街を襲い始めました。人々は一生懸命に立ち向かいましたが、流石に神様には手も足も出ません。そこで彼らは、暴れん坊だったストライフに鎧を仕立て、『ケイオスを倒して欲しい』と頼み込みました。ストライフは暴れん坊の自分が誰かに頼られた事に大層喜び、鎧を受け取ると、ケイオスのことをあっと言う間に倒してしまいました。人々は喜び、ストライフもまた喜びました」
「ストライフは暴れん坊だったけど、これでみんなと仲直りできたのかな」
ベッドのそばで絵本を読み聞かせる母親に、無垢な心で少年は質問を投げかける。
「そうだねぇ。仲直りできたら、そりゃ一番良かったんだろうね。けれど、人々はストライフが暴れていたことを、これだけじゃすぐには許せなかったんだ」
「そうなの? だって、みんなのことを助けてくれたんだよ?」
今度は先ほど質問した少年の弟が、掛け布団から小さな頭を覗かせた。だがまだ身体の小ささのせいで、殆ど布団に埋もれている。
「うん。確かにストライフはみんなのことを助けてくれたね。でも、今までずーっと暴れん坊だったストライフが、鎧まで手に入れたんだよ? また暴れ出したら怖い、って思うのも無理はないでしょ? だから、ストライフも人々によって鎧と一緒に、小さな箱の中に鍵をかけて封じ込められちゃったの」
「そんな、ストライフがかわいそうだよ。だって、助けてって言ったのはみんなの方なのに」
弟が訴えるように呟く。
「でも、ストライフはストライフで今まで暴れてきたんだから、ちょっと仕方ない気もする……な」
一方、少年は眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。母親はそんな二人を優しく撫でると、微笑みながら語りかける。
「2人とも違う答えが出たよね。どっちが正しいとか、どっちが悪いとかはちゃんと分からないでしょ? きっと、このお話が伝えたい事って、そこだと思うの」
「んーと……どういうこと?」
少年達はキョトンとした目で、変わらず母親を見つめている。
「今の世の中って、すぐ人の行動だけ見て『良い人』『悪い人』を決めようとする人がたくさんいるの。でも、誰だって良いところがあれば、悪いところもある。さっきの神さまや人々も一緒。みんな全部持っていて、それが見え隠れしてるだけ。だから、たとえ相手が悪い事をしたって、頭ごなしにその人を否定しないであげて。悪い事は悪い事。でも、それだけでその人の人生全てが悪かったかといえば、それは違うと思う。難しい事よ、難しい事だけど、いつかどんな人でも受け入れてあげられる、大きな人になってね」
母親の眼差しは、優しく、まっすぐに二人を見つめている。
「……よくわからないや」
弟の方は、大きく欠伸をして布団に潜り込んだ。長話に飽きて、既に眠そうだ。
「ふふふ、ちょっと難しいお話だったね。さ、そろそろ寝よっか」
「うん。おやすみ、母さん」
電灯が消え、弟の寝息が聞こえるほど静まった部屋。少年は、先ほどの母親の言葉が、妙に頭から離れなかった。
「どんな人でも受け入れる……か」
***
時は流れ、少年――
「いいか、脱力した状態から……号令と同時にこう『パッ!』と出せるように。見えたか? 力を抜いた状態から入んなきゃダメだ。んじゃ、いくぞ」
「1、2、3……」
道場内に響き渡る威勢の良い掛け声とともに、教え子たちは拳を振るう。凛斗はまだ若いが、指導力には既に一定の評判がある。
「さて、と。では次は……」
凛斗が次の型の指導に移ろうとすると、彼の父親――
「おい、凛斗! 珍しいお客さんが来てる。後の指導は受け持つから、行ってこい」
「珍しい客? 俺に?」
凛斗は不思議そうに首を傾げる。珍しい客と言われても、パッと頭に浮かぶような人物はいない。
「じゃなきゃ声かけないだろ」
「そりゃそうか。じゃあ後は頼んだよ、父さん」
「おう、任せろ」
凛斗が道場の入り口に向かうと、そこでは一人の男が俯きながら待っていた。
彼の名は
「久しぶりだな。数年ぶりか? 元気そうじゃねぇか」
「お前……最近まるで顔見せなかったじゃねぇか。急にどうしたよ」
「いや何、ちょっとした野暮用さ」
「あぁ……? まぁいいや、上がりなよ」
凛斗は亮二を奥の部屋へと案内すると、お互い向かい合ってどっかりと座った。亮二はあぐらをかきながら、部屋中を舐めるように見渡している。
「懐かしいな」
「お前がここを出てからもう4年か。みんなびっくりしたもんだぜ、お前がやめるって言った時は」
亮二の片眉がピクリと動く。
「お前はみんなが認めるほどの天才だったからな、試合でもほとんど負けなしだったし……」
「……その話、まだ続けるかい」
亮二が低い声で唸った。鋭い眼光が、凛斗の皮膚に突き刺さる。
「あ……悪い、気に障ったかな」
「俺はもう空手はしないって言っただろ。それに今は、親父の工場の手伝いで忙しいんだ。それどころじゃない」
凛斗は苦笑したが、亮二の表情は硬いままである。部屋中が、段々と重苦しい空気で満たされていく。
「えっと、じゃあ……お前は一体なんの用でここに来たんだ?」
「いや、実は昨日よ、知り合いから面白いもの貰ってな」
そう言うと、亮二はバッグに手を突っ込んで、いくつかの錆びついたガラクタを取り出した。相当古いもののようで、机に置くと破片がいくつかこぼれ落ちた。
「おわ、汚っ」
「ボロボロだから洗うに洗えなかったんだよ。……んで、この形状に何か見覚えは?」
凛斗は机の上のそれをマジマジと眺めた。錆の塊のような長方形の箱、そしてエジプト十字を模したような、手のひら大の何か。確かにうっすらとだが、凛斗にはこれを何処かでこれを見た記憶があった。
「これ、まさか……ストライフの話に出てきた箱と鍵か?!」
凛斗は、母親がよく読みかせてくれた絵本を思い出していた。幼少期とはいえ何度もせがんで読んでもらったので、ある程度なら絵の内容も覚えている。
「エジプト十字型の鍵見て思い出したよ、特徴的でよく覚えてたからな。へぇ〜、錆だらけだけどよくできてんなぁ……」
「どこで貰ったんだか作ったんだか知らんが、押し付けられて持て余しててさ。お前が好きだったの思い出して持ってきたんだ。ガキの頃から、俺といる時は何かにつけストライフ神話の話をしてたからな。よかったらやるよ」
「マジで?! いいの?!」
凛斗は子供のようにはしゃいでいる。
「あぁ。どうせなら、好きな奴が持ってた方がいいからな。ボロいし、扱いには気をつけろよ」
「了解。わざわざありがとな、亮二」
無邪気に笑う凛斗。その姿を見つめる亮二に、一瞬だけ苦しそうな笑みが浮かんだ。
「おう。……またな」
彼はそのまま、振り向かずに駆けて行った。
亮二が去った後、凛斗はしばらくストライフの箱に食いついていた。
「やっぱ出来がいいな……誰が作ったんだろ。こういうグッズが出てるなんて、聞いた事なかったけど。何処かの熱心なマニアが、個人的に作ったのかも」
凛斗は軍手をはめると、その箱をゆっくりと持ち上げてみた。ガワだけではなく殆どが金属製の様で、かなり重量感がある。
「すげぇ、裏の模様までしっかり描いてある。こりゃ大事にしないとな……あ」
箱が、落ちた。
それも床ではない、体内へと、落ちた。
しっかりと掴んでいたはずの箱が、手をするりと通り抜けて自分の体へと落ちて行ったのだ。体には異物感はないが、突然の現象に冷や汗だけが溢れ出てくる。
「え……え?」
困惑するほか、現状彼ができる感情表現のレパートリーは存在しない。いや、彼でなくとも、こんな場面に出くわせば誰であろうと困惑する。
「おーい、そろそろ戻って来い!」
「あっ」
呆然とした意識を引き戻したのは、父親の声だった。慌てて汗を拭うと、頬を叩いて自分を正気に戻す。
「今、行くよ」
返事の声は、いつもより少し小さかった。
***
――さて。あれを、どうすべきか。
「……んせい」
――あいつに事情を話すか? いや、信じて貰えないだろ、あんな事……。
「……先生」
――病院行って、レントゲン撮るか? いやいや、もしあれが見つかったら大騒ぎだろ。やっぱり、これは俺だけの秘密にしておいた方が……
「先生!」
「うぉっ?!」
教え子からの呼びかけに気づき、思わず尻餅を着きそうになる。凛斗は、あれからずっとこんな調子だった。
「先生、しっかりしてよ。具合悪いの?」
「いや、大丈夫だ。悪いことしたな。さて、じゃあ次の型に移ろうか……っと、あいつはまたいないのか?」
凛斗が言うあいつとは、
「未来のこと? あいつなら先生がぼーっとしてる間に抜けていったよ」
「あー……、やっちまった」
誤魔化すように凛斗が頭を掻くと、追い討ちをかけるように啓治が肩に手を当てた。
「あぁ、やっちまったな」
「げ、父さん。見てたのかよ」
「仕事が手に付かないならお前にやらせてる意味がないからな。しょうがない、今日はもう全部俺が持つから、責任持ってあいつの事呼んでこい。ほら、ちんたらしない!」
「分かったってば」
言われるがままに道場を後にする凛斗。玄関を出ると、外はすっかり闇に落ちていた。
「多分……またあそこだな」
凛斗はそう呟くと、道場の裏手にある、小さな公園へと向かった。わずかな電灯に照らされたベンチに、小さな人影が見える。
「お、いたいた。やっぱりここだったか」
「……来たんだ、もう諦めたかと思ったのに」
その小さな人影、もとい未来は、怪訝そうな顔で凛斗の方を向いた。
「んな嫌そうな顔しなくたっていいだろ」
「だって嫌だもん」
「なんだ、俺がか?」
「……ううん、稽古が。まぁ先生もちょっとあるけど」
「おい」
未来は、暗い表情で遠くを見つめていた。凛斗は、ベンチに腰掛けて近寄ると、落ち着いた声で話しかける。
「今まですぐ呼び戻しちゃってちゃんと聞けてなかったけどさ……どうしてそんなに稽古が嫌なんだ?」
「だって、僕は別に空手好きじゃないもん」
未来は頬を膨らませた。
「わざわざ道場入ったのにか?」
「お母さんが、入れって。何か一つぐらい習い事しといた方がいいから、って」
「あはは、なるほどな。そりゃあ嫌なわけだ。興味もないものを、無理矢理やらされたところで、楽しいわけがない」
凛斗がカラカラと笑い飛ばすと、未来は不思議そうな顔をした。
「……怒らないんだ」
「あぁ、怒らないさ。怒ったら君はますます空手が嫌いになるだろ。俺の仕事は、みんなに空手を好きになってもらう事だからな」
凛斗は不意に立ち上がると、未来の前に立ちはだかった。
「未来、ちょっと俺を殴ってみろ」
「え?」
あまりに唐突な凛斗の申し出に、未来は思わず狼狽えた。
「いいから、ほら、どんと来い」
「よく分かんないけど……えい!」
未来の小さな拳が、凛斗の大きな体へと放たれる。凛斗は即座に鋭い身のこなしで拳を弾くと、未来の目の前へと瞬時に手刀を振り下ろした。
「速かったろ」
「……すごい」
未来は、ただただ呆気に取られていた。
「空手ってのは護身の為の武術としての一面がある。沖縄空手なんかは、その代表的な例だな」
「護身……」
「要は空手ってのは、守るための武術だってことさ。誰かを傷つけるための武術じゃない。たとえ弱くても、何か大事なものを守るために作られた、人間の知恵の賜物なんだ」
「ちょっと大袈裟じゃない?」
「いいや、決して大袈裟なんかじゃないさ。一生のうちに、何か大切なものを守れたら、きっとかっこいいぜ」
一瞬、未来から笑みが溢れる。
「フフ、ニヤけてるぞ。かっこいいのは好きか、未来?」
「あ……うん」
未来は急いで口角を引き戻すと、顔を真っ赤にして頷いた。
「俺も好きだぜ、カッコいいのは。だから、空手が好きなんだ。誰も傷つけないで、みんなを守れる。みんなが幸せになれる競技だって、俺は本気で信じてるよ」
凛斗はそう言ってしゃがみ込むと、そっと未来の頭を撫でた。未来がくすぐったそうに頭を押さえる。
「それじゃ、戻るか。夜一人でいるのは危ないんだからな、もうするなよ」
「もし危なくなったら、先生が守ってくれるんでしょ?」
不意を突かれるような言葉に、凛斗は硬直した。
「え……あ、当たり前だろ! なんだ、急に照れる事言うなよ」
「えへへ」
未来が、今度は思い切り笑んだ。それはこの夜空に瞬く星々や、さっきまで彼を照らしていた電灯よりも、ずっとずっと明るい笑みだった。
***
稽古が終わり、子供達が帰路についた頃。凛斗は啓治と二人で、家に帰る支度をしていた。
「……なぁ、凛斗。お前、疲れてないか?」
啓治が、少し心配そうに話しかける。
「急にどうしたよ、父さん」
「さっきの件だよ。お前、『心ここに在らず』だったろ」
「それは……」
凛斗は開きかけた口を、慌ててきつく窄めた。
――言えないよな、父さんには。
ほんの僅かでもアレがただのガラクタであったのなら、どれだけ凛斗の心は楽だっただろうか。
「母さんが病気で倒れてから、お前に家の事を手伝わせる事が多くなってしまったからな。疲れてても、おかしくはない」
「……うん」
凛斗の母――
「別に疲れてるわけじゃないよ。心配させてごめんね、父さん」
「あぁ、何もないならいいんだ」
啓治は、そのまま片付けの続きを始めた。その隣には、少しだけ安堵した表情の凛斗が立っていた。
帰宅すると、凛斗の弟――
「ただいま〜……あっ」
「あっ、じゃないよ。随分遅かったね。もう20時近いよ? ……お腹空いちゃった」
東が腹を押さえると、タイミングよく腹の虫が鳴った。凛斗が耐えきれず吹き出す。その横で、啓治が気まずそうな顔で東に話しかけた。
「おう……色々話してたら、すっかり遅くなっちゃってな。何か適当に食べれば良かったのに」
「受験勉強でそれどこじゃないってば」
「……そうだったな。まぁいい、急いで何か作るからちょっと待ってろ」
啓治が駆け足で台所に向かった隙を見て、東が凛斗に話しかける。
「ねぇ、兄さん疲れてない?」
凛斗は再度吹き出しかけた。
「なんだ、今日の俺はそんなに疲れてるように見えるのか」
「見える。だって、口角がいつもより下がってるもん」
凛斗が反射的に口角に指を当てる。
「……マジ?」
「うん、マジ。兄さんが何か思い詰めてる時って、いつもその顔になるからさ」
「……東、流石にちょっと怖いぞ」
思わず凛斗が苦笑いをした瞬間、キッチンから啓治の声が飛んできた。
「二人とも、ちょっとは飯の準備手伝ってくれ! あ痛っ、指切った!」
「オイオイ、何やってるんだよ父さん! 仕方ない、行こうぜ、東」
「……うん、行こうか」
歯車は、一つ欠けただけで全ての流れを狂わせる。真凱家の空気は、明るい様で何処か重たかった。
***
一週間後、道場では相変わらず威勢の良い掛け声が響き渡っていた。そしてその中には、未来の姿もあった。
「未来、お前随分と上達が早いな。とても始めて一週間とは思えないよ」
凛斗が感心していると、未来が照れ臭そうに頭を掻いた。
「そうでもないよ。僕はみんなより遅れてるから、頑張らなくちゃ」
「その心意気やよし、だな。じゃあどんどんやっていこう!」
「1、2、3……」
再び教え子の掛け声が響き出す。その中でも一層に大きな声を上げる未来を見て、凛斗はうっすらと涙を浮かべていた。
時の流れは速く、時計の針は既に終了時刻の19時を示していた。
「おっと、もうこんな時間か。じゃあみんな、今日はここまでだ。よく頑張ったな、礼!」
挨拶をし終えた瞬間、1人の少年が着替えもせずそそくさと帰って行った。未来だった。
「あっ! あいつ、今日も……」
数日前から、未来はこの調子だった。初めは空気に馴染めなかったからかと思い気にしていなかったが、流石に連日続けば気がかりになる。
「なぁ、父さん。ちょっと片付け頼んでいい?」
「ん……構わないが、何かあったのか?」
「未来、いつもすぐ帰っちゃうから。様子見に行くだけ」
「そうか。あんまり遅くなるなよ」
玄関を開けると、時間の割に空が明るかった。蒸し暑い空気が、自分の道着を更にベタつかせる。
「さて、まぁ行き先は決まってるよな……」
凛斗がたどり着いた場所は、かつて未来がサボる度に来ていた公園だった。そしてそこには、1人で拳を振るう未来の姿があった。
「未来、お前……」
凛斗が声をかけると、未来は驚いた様子で、そのまま逃げる様にして走り去った。
「おい、ちょっと待て!」
凛斗が追いかけると、未来はつまづいて転んでしまった。
「おい、大丈夫か! 何も逃げる事はないじゃないかよ、な?」
「ごめんなさい……」
「心配しなくても、怒らないからさ。みんなに追いつきたくて、コソ練した事は俺もあるし。でも、夜1人でいるのは危ないって言ったろ? だから今度からは……」
だんだんと、未来の目が潤んできた。
「おっとっと、泣かなくていいんだよ。それとも、転んだ時に怪我しちゃったかな?」
「違う……」
「……へ?」
よく見ると、潤んだ未来の目は、凛斗を見ていなかった。
凛斗の、背後を見ていた。
「ばけもの」
震えた声で、未来は凛斗の後ろを指さした。
「……化け物だって?」
瞬間、凛斗の体は大きく吹き飛ばされた。公園の金網フェンスに全身を強打し、背中全体が悲鳴を上げる。
「何……が……起きた……」
突然の出来事に頭が回らない。ただ、ぼやけた視界の先に、確かに未来が「化け物」と形容した何かが蠢いているのが見える。
「何だよ……あれ……」
肉が膨張した様な、不安定な体型をしたその怪物は、ゆっくり、ゆっくりと、怯える未来へと近づいていく。
「おい……やめろ……やめろ!! そいつには手を出すな!!」
這いつくばった我が身を動かそうと、必死に体に力を込める凛斗。しかし、声を上げたくなるほどの鋭い痛みが邪魔をする。
「あぁ……畜生……。動けよ……動け……!! 未来が危ないんだよ、自分の体なんか今はどうでもいいだろ!! 痛いとか言ってる場合じゃないんだよ!!」
立ち上がり、よろめき、再び立ち上がり、よろめき。あと一歩、届かない。
「動けえェェ!!」
叫びだけが、曇天に染み渡った。
後に残ったのは、体から血を流す未来と、絶望に震える凛斗と、それを見下ろす怪物だけだった。
「あ……あぁ……」
喉の奥から、悲痛な呻き声が転げ出た。
『もし危なくなったら、先生が守ってくれるんでしょ?』
未来の無邪気な笑顔が、脳裏に浮かぶ。
――俺は、約束も、未来も、守れなかった。
「俺が、助けてさえいれば」
後悔が、打撲した背筋のあざをなぞる。
「許さない……」
その言葉を、口走った瞬間。
一瞬にして、眩い光と凄まじいソニックブームが、凛斗を包み込んだ。行き場のない悲しみが、悔しさが、怒りが、一気に溢れ出た。
少し、間があった。
凛斗が我に帰ると、怪物は既に動かなくなっていた。周囲には、池のように血や肉片が飛び散っている。
「これは……」
荒い息を立て、凛斗はそっと自分の体に触れた。
――冷たい。
体が、鎧のようなもので覆われている。腰には、あの錆だらけだった箱が、絵本で見た姿を取り戻し、ベルトとなって巻きついている。そして手には、怪物のものと思しき血痕がベッタリとついていた。
ここで初めて、彼は自分の身に起きている変化と、あの怪物を自分が倒した事に気がついた。だが、大した驚きはなかった。
「救急車、呼ばなきゃ」
今、彼の最優先事項は、未来。あとは全て、二の次。それだけだった。
***
「……死んだのか、アイツは」
口髭を蓄えたワイルドな風貌の男――
「えぇ、ほとんど一方的に殺されてますね。まだ鎧の能力も解放していなかったはずなのに、大したものです」
眼鏡姿の理知的な青年――
「兄上の計画に疑念を持つつもりはありませんが、この調子だとこちらがアレを完成させる前に、彼が鎧を使いこなしてしまうというリスクはないのですか……?」
恐る恐る、真面目そうな青年――
「むしろ使いこなしてもらわないと困るのですよ。でなければストライフの鎧の性能を、明確にデータ化する事ができませんから」
「なるほど……」
感心する貴志を尻目に、誠は虚な目を空に向けてタバコを吸った。
「ま、お前が何しようと、俺はこれでもう後には戻れなくなったわけだ。言う通り動いてやるから、せいぜい上手く頼むぜ」
誠はそう言うと、ゆっくりと立ち上がって去っていった。
「えぇ、もちろん。貴方には期待しているのですから。さて……これから頑張ってもらいますよ、真凱 凛斗くん」
燿馬は、妖しげに画面を見つめていた。
***
『昨夜、〇〇県△△市にある空手道場付近の路上で、小学生の男子児童が、何者かに襲われ重傷を負う事件がありました。警察は犯人の特定を急ぐと共に、事件当時の現場の状況の把握を迅速に進めているとのことです。現場一帯にはおびただしい量の血痕が残されており……』
「どのチャンネルもずっとこの話題ですね。すみません……思い出したくもないでしょうに」
凛斗は、病院の一室で眠る未来の顔を覗き込みながら、彼の母親に頭を下げていた。
「よして下さい、先生が駆けつけてくださらなければ、この子はどうなっていたか分かりません。本当に、なんてお礼をしたら……」
「いいえ……私は……」
凛斗は唇を強く噛み締めた。
あの事件の直後、凛斗は道場に傷だらけの未来を運び込んでいた。啓治や、駆けつけた警察からは質問攻めにあったが、どのみち説明しても理解されないと思い、「通り魔にやられた」とだけ話した。全てが終わると、凛斗は凄まじい疲労に襲われて、そのまま倒れるように眠った。
翌日、彼は東と啓治がまだ起きないうちから、半狂乱気味で未来の病室へと向かった。扉を開けるとそこには、全身を血の滲んだ包帯で巻かれた、痛々しい姿の少年が寝そべっていた。
「……未来……か?」
「先生……」
今にも消えて無くなりそうな声で、未来は凛斗のことを呼んだ。凛斗は近くにいた彼の母親に、かぶりつく様に問いかける。
「金谷さん……!! 未来くんは……」
「先生、落ち着いてください、先生! 未来は、命に別状はないと、お医者様の方から話がありました。ただ、その……」
「その……?」
凛斗が言葉の続きを待っていると、ベッドからか細い掠れた声で、そっと未来が告げた。
「僕、もう、空手できないんだって……」
すでにもう何十回も、泣いたのであろう。か細くなったその声は、凛斗の胸の奥深くを、鍵爪のように深く、強く抉った。直後、何かの栓が抜けたかの如く、凛斗の眼からは涙が漏れ出た。彼には、それ以外何も出来なかった。
「酷い骨折で、後遺症もたくさん残るだろうって、言われました。この先、どうすれば未来が幸せになれるのか、今は何も分からなくて……」
――俺の、俺のせいだ。
凛斗はただひたすらに自分を責めた。あの怪物をなぶり殺した以上、この行き場のない怒りの矛先は、もう自分しか残っていなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
呪詛のように、凛斗はその言葉を繰り返していた。
そして今、現在へと至る。
凛斗は未来の母親と話しながら、盲目的に未来の頭を優しく撫でていた。
「未来くんは、みんなに追いつこうと、自分なりに頑張っていただけなんです。未来くんは何一つ悪くない。これは、全て私の監督責任です。だからどうか、未来くんを責めないであげてください」
「先生……」
「……それじゃ、私はこれで。父や弟に黙って来ちゃったので、早く帰らないと」
凛斗は立ち上がると、不安定な足取りで扉のドアノブに手をかける。すると、寝ていたはずの未来が、優しく呼び止めてきた。振り向くと、凛斗を慰めるかのように、彼はそっと微笑んだ。
「先生、ありがとう」
ドアノブを握る手が一瞬、震えた。
「……また来ますね」
それ以上は、何も言わなかった。
***
晴れた空の下。
一人の青年が、空を仰いでいた。
差し込む日差しが、堪らなく眩しかった。